歌川広重と共にRUN 湯島天満宮
広重の「湯しま天神坂上眺望」を巡ります。江戸時代の湯島天神は、江戸の三冨の内の1つである「富籤」と言われる現在の宝くじにあたる興業が、毎月16日に行われていて、賑わっていたそうです。作品にある不忍の池を巡り、根津のヴィーガン定食を頂きRUNを終えました。
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インストール広重の「湯しま天神坂上眺望」を巡ります。江戸時代の湯島天神は、江戸の三冨の内の1つである「富籤」と言われる現在の宝くじにあたる興業が、毎月16日に行われていて、賑わっていたそうです。作品にある不忍の池を巡り、根津のヴィーガン定食を頂きRUNを終えました。
広重の「江戸 浅草市」を巡ります。毎年12月17日、18日の両日浅草市が行われており、今も昔ま変わりなく、人が行き交っています。同じ賑わいのある渋谷を出発して、一路浅草に向かい、蛤蕎麦でRUNを締めくくりました。
広重の「雑司かや不二見茶や」を巡ります。江戸時代は、展望の良さを売りにした茶屋が多く存在していました。広重が何処でこの絵を描いたのかは定かにはなっていませんので、雑司ヶ谷から程近い所にある、急坂で有名な「のぞき坂」からの写真を記録に残しました。位置的には富士山が見える角度になりますが、今は見る事が出来ません。鬼子母神堂内にある、1781年創業の日本最古の駄菓子屋「上川口屋」や手塚治虫が暮らしていた「並木ハウス」や「夏目漱石の墓」等を巡り、神田川沿いに店を構える「伊良コーラ」のクラフトコーラを飲んでRUNを終えました。
広重の「駿河町之図」を巡ります。当時は、現在の「三越」の全身となる「三井越後屋」の横の通りから、駿河国に位置する富士山が一望出来た事から「駿河町」と名付けられたそうです。日本橋には魚市場があったので、駿河町辺も魚売りが多くいたらしく、広重も棒手振(ぼてふり)を中央に描いています。渋谷から一路日本橋に向かい、棒手振にちなんで「天ぷらめし」でRUNを締めくくりました。
広重の「大伝馬町ごふく店」を巡ります。江戸時代初期は、江戸唯一の宿場町で栄えていて、駅馬たる「伝馬」があった事から伝馬町と名付けられました。しかし、宿場が他にも出来た事から、少しずつ宿屋が無くなり、木綿問屋が多く店を構えるようになり、京都の「大丸屋」が「現金かけね無し」の看板を掲げて成功を収めてから、呉服の町として繁栄し、今でもその名残があり、多くの洋服問屋が連なっています。伝馬町牢屋敷が残る十思公園から人形町を巡り、甘酒横丁の甘酒を飲んでRUNを終えました。
広重の「高輪全図」を巡ります。広重の絵の左下に見える「大木戸跡」を出発して、かろうじて都内で存在する砂浜のある海岸を目指して、城南島海浜公園を目指します。広重の時代は海だった場所で、道中は荒れた道や見慣れない光景の場所が多く、奥深いRUNとなりました。羽田空港に隣接しており、かろうじて写真に飛行機が移りました。新旧の差を感じられる1枚となりました。豆大福で最初の力をつけて、生姜焼き定食で身体をねぎらいました。
広重の「東都名所坂つくしの内」から「江戸見坂の図」を巡ります。広重がこの作品を描いた時代は、この坂上から江戸市中を見渡せた事からこの名前が付きました。今ではビルに囲まれていますので、景色は見渡せず、最後に愛宕神社の階段上から風景を楽しみました。渋谷から六本木迄の短い距離ですが、この経路は名坂の宝庫で、道玄坂〜牛坂〜大横町坂〜けやき坂〜さくら坂〜芋洗坂〜閻魔坂〜丹波谷坂〜寄席坂〜スペイン坂〜道源寺坂〜江戸見坂〜愛宕男坂を巡りRUNを終えました。
広重の「赤坂桐畑」を巡ります。 当時は、赤坂から虎ノ門迄に湧水の出る天然池がありました。江戸時代に江戸城の外壕とする為にこの池を拡張させ、後に「溜池」と名乗られるようになりました。その後、土手の補強の為に多くの桐の木を植えられました。広重が描いた日枝神社前のこの池は、既に埋められており、桐の木も無いので、紀尾井町に残る溜池と橋にある鉄柱を桐の木に見立てて記録に残しました。渋谷はハロウィンの影響で封鎖されており、空中からの交差点を撮影してRUNを終えました。広重が生きていたなら、この渋谷の風景をどう描くのでしょうか?
広重の「向しま花屋敷七草」を巡ります。向島の名所である「向島百花園」は1804年に骨董商人の佐原鞠塢により造られ、亀戸の梅屋敷と人気を競っていたそうです。向島は、現在も数多くの料亭が存在し、当時の賑わいを残しています。
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