歌川広重と共にRUN 金沢
広重の「加賀 金沢八勝之肉 連湖之漁火」を巡ります。蓮湖は、金沢市と河北郡にまたがる河北潟の事で、広域で生息していた鬼蓮から蓮湖と呼ばれいたそうです。江戸の頃から農地造成を目的とした干拓が進められるが、なかなか進まず、近代になって再開されて、昭和60年に完成しました。海水が侵入する気水湖であった為、魚の種類も豊富で漁業も盛んだつたそうです。
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インストール広重の「加賀 金沢八勝之肉 連湖之漁火」を巡ります。蓮湖は、金沢市と河北郡にまたがる河北潟の事で、広域で生息していた鬼蓮から蓮湖と呼ばれいたそうです。江戸の頃から農地造成を目的とした干拓が進められるが、なかなか進まず、近代になって再開されて、昭和60年に完成しました。海水が侵入する気水湖であった為、魚の種類も豊富で漁業も盛んだつたそうです。
広重の「越中 冨山 船橋」を巡ります。奥飛騨から富山湾へ流れる神通川は流れが早く、船渡しが困難だった事から数十隻の船を繋いで橋を造ったそうです。明治に入り大規模な改修工事により神通川本流が西に移り旧川は小規模に埋め立てられましたので両方の川を記録に残しました。広重の絵の中にもある鱒は当時から名物で、今でも多くの鱒の寿司屋が存在しています。
広重の「飛弾籠わたし」を巡ります。飛騨地方は、山深く、架橋の設置が難しく、渓谷の間に網を渡し宙吊りにした籠を引いて移動させる「籠渡し」が行われていました。猪谷駅前の案内所には当時の資料が多く残されており、籠の実体験も出来ます。この一帯は今でも野生の熊が多く生息していて、冬以外は注意が必要です。
広重の「湯しま天神坂上眺望」を巡ります。江戸時代の湯島天神は、江戸の三冨の内の1つである「富籤」と言われる現在の宝くじにあたる興業が、毎月16日に行われていて、賑わっていたそうです。作品にある不忍の池を巡り、根津のヴィーガン定食を頂きRUNを終えました。
広重の「江戸 浅草市」を巡ります。毎年12月17日、18日の両日浅草市が行われており、今も昔ま変わりなく、人が行き交っています。同じ賑わいのある渋谷を出発して、一路浅草に向かい、蛤蕎麦でRUNを締めくくりました。
広重の「雑司かや不二見茶や」を巡ります。江戸時代は、展望の良さを売りにした茶屋が多く存在していました。広重が何処でこの絵を描いたのかは定かにはなっていませんので、雑司ヶ谷から程近い所にある、急坂で有名な「のぞき坂」からの写真を記録に残しました。位置的には富士山が見える角度になりますが、今は見る事が出来ません。鬼子母神堂内にある、1781年創業の日本最古の駄菓子屋「上川口屋」や手塚治虫が暮らしていた「並木ハウス」や「夏目漱石の墓」等を巡り、神田川沿いに店を構える「伊良コーラ」のクラフトコーラを飲んでRUNを終えました。
広重の「駿河町之図」を巡ります。当時は、現在の「三越」の全身となる「三井越後屋」の横の通りから、駿河国に位置する富士山が一望出来た事から「駿河町」と名付けられたそうです。日本橋には魚市場があったので、駿河町辺も魚売りが多くいたらしく、広重も棒手振(ぼてふり)を中央に描いています。渋谷から一路日本橋に向かい、棒手振にちなんで「天ぷらめし」でRUNを締めくくりました。
広重の「大伝馬町ごふく店」を巡ります。江戸時代初期は、江戸唯一の宿場町で栄えていて、駅馬たる「伝馬」があった事から伝馬町と名付けられました。しかし、宿場が他にも出来た事から、少しずつ宿屋が無くなり、木綿問屋が多く店を構えるようになり、京都の「大丸屋」が「現金かけね無し」の看板を掲げて成功を収めてから、呉服の町として繁栄し、今でもその名残があり、多くの洋服問屋が連なっています。伝馬町牢屋敷が残る十思公園から人形町を巡り、甘酒横丁の甘酒を飲んでRUNを終えました。
広重の「高輪全図」を巡ります。広重の絵の左下に見える「大木戸跡」を出発して、かろうじて都内で存在する砂浜のある海岸を目指して、城南島海浜公園を目指します。広重の時代は海だった場所で、道中は荒れた道や見慣れない光景の場所が多く、奥深いRUNとなりました。羽田空港に隣接しており、かろうじて写真に飛行機が移りました。新旧の差を感じられる1枚となりました。豆大福で最初の力をつけて、生姜焼き定食で身体をねぎらいました。
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